アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その68 国民の不和

Last Updated on 2025年3月22日 by 成田滋

アメリカ国民の団結という旗印と一体感というスローガンは、説得力があるようですが異なる方向も示しています。1803年のマーベリー対マディソン裁判(Case of Marbury v. Madison)において、最高裁判所は議会の立法について司法審査を最初に行使しましたが、このような介入は強力な国家政府を支持する人々を喜ばせました。州政府に対する連邦政府の優位を主張する立場は、最も重要な憲法解釈となりました。この判決を下したマーシャルは、後生までも最も著名な連邦最高裁判所長官といわれるようになりました。 同時に反対派を激怒させましたが、マーシャルの最高裁長官の私有財産の権利の擁護は、批評家からは財産保有の原則を裏切るものとして批判はされました。

 1812年の米英戦争中の先住民族の土地の収奪は、西部の人々は、決しての手放しの祝福とは受けたとってはいませんでした。東部の保守派は地価を高く維持しようとしました。投機的な利益を求める人々は、貧しい不法占拠者に有利な政策に反対しました。政治家は、こうのような勢力均衡の変化を危惧していきます。ビジネスマンは彼ら自身とは違った関心を持つ新しい層に警戒していました。ヨーロッパからの訪問者は、いわゆる「好感情の時代(Era of Good Feelings) 」の間でさえ、アメリカ人は、彼ら自身以外の田舎者を軽蔑するという傾向があると指摘しました。

 1819年恐慌(Panic of 1819)という緊急危機と経済的困難は、国民の間に不和を生み出しました。金融危機と不況は銀行と企業に対する民衆の不満を掻き立てます。連邦政府の経済政策に基本的な欠陥があるという考えが広がります。第二合衆国銀行の銀行券に相当する金貨を提供できなかったことで、州認証銀行は貸し付けを行っていた抵当の重い農園や事業用土地に対する取り立てを始めます。この措置によって倒産が広がり、大勢の者が雇用を失ったのです。こうした混乱の中で、権力の獲得や安定を巡って激しい政治党争を繰り広げました。

 国の分裂の最も劇的な兆しは、奴隷制、特に新しい領土への広がりをめぐる政治的闘争でした。1820年のミズーリ妥協(Missouri Compromise)は、少なくとも当面の間、さらなる不和の脅威を和らげることになりました。これにより州間の部分的なバランスは維持されます。ルイジアナ買収は、ミズーリ領土を除いて、奴隷制は36°30’線の南の地域に限定されることになっていました。しかし、この妥協は危機を終わらせることはなく、むしろ延期するだけでした。

 北部と南部の上院議員の議席が互いに拮抗するという状況は、人々がさまざまな大きな地理的部分における相反する利益を有するということを示唆していました。 ニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)から10年後は、複雑な国民感情が広がり、モンロー政権のときのような「好感情の時代」ではなかったということです。

 奴隷制の歴史は、今も人種差別という目に見えない姿で残っています。人種のるつぼが抱える宿命のようなものです。しかし、現在は「人種のサラダボウル」に代表される多文化主義とか「文化の連邦体」というマイノリティを尊重するコンセプトが定着しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA